僕のパリ/辻邦生のパリ

  • 今回のパリ2泊3日旅行は、「奥方の強い要望で行き先が決定した」ということになっているが、実はパリを訪れることは僕にとっても長年の念願だったのである。ファッションの都、そして芸術の都パリ。しかし僕にはパリという町は第一に文学の都であり、ジャズの都なのである。「文学」とは、その昔ユーゴーバルザックスタンダールモリエールなどの大文豪が活躍したパリということよりもむしろ、僕が愛して止まない偉大なる小説家「辻邦生」が若き日に文学修行をした町なのである。辻は1957年よりパリに留学し、己の文学の可能性を探求する日々を送った。(うろ覚えだが)パリ時代に、スタンダールの原文を単語レベルに分解してその文学の秘密を追究したエピソードは有名である(北杜夫のエッセイか両者の対談集で読んだような記憶がある。2人は旧制松本高等学校で共に学んだ親友である)。辻文学の特徴であり、到達点は「物語の楽しさ」と「文学の芸術性」の高い地点での両立でる。辻作品に登場する人物たちは、抽象的な「美」や「芸術性」を愛し追い求めると同時に、生身の人間として「日々暮らしていくこと」を楽しむ生活人である。そこには「生の肯定と謳歌」がある。壮大な歴史ロマン『背教者ユリアヌス』や連作短編集『わが生涯の七つの場所』は辻文学の最高峰だと思うが、同時にまだ粗さの残る初期の短編も瞬時に作品世界に引きずり込まれる鮮烈な魅力を放つ。その「物語性」ゆえに小説は「純文学」の中では読みやすい部類に入るが、対照的に辻の小説論は難解である。またパリ時代の日記は悶々たる思索の日々が綴られている。辻が亡くなったのは1999年。その訃報を聞いたときの衝撃は忘れられない。パリを訪れるんだったら、数十冊持っているうちの2、3冊だけでも辻邦生の小説をイギリスに持って来るべきであった。
  • パリのジャズとしてまず思い浮かぶのは晩年のバド・パウエル。それに『サンジェルマンのジャズ・メッセンジャーズ』、マイルスの『死刑台のエレベーター』。しかし、僕がパリに思うのはミシェル・ペトルチアーニのことであった。彼は先天性の障害で1メートル足らずの身長しかなく骨が脆いというハンディキャップを持ちながら、比類なきテクニックとスケールの大きな芸術性で数々の名アルバムや演奏活動を残し、フランス最高のジャズピアニストとも呼ばれた人である。辻邦生と同じく1999年にわずか35歳でその生涯を閉じた(この年にはミルト・ジャクソンも亡くなっている)。パリ18区の広場は「ミシェル・ペトルチアーニ広場」と名づけられ、その墓は多くの偉人・有名人が埋葬されている「ペール・ラシェーズ墓地」内にある(フレデリック・ショパンのすぐ近くだそうだ!)。
  • 広場にも墓地にも行ってみたいが、今回の日程では難しそうである(定期周遊観光バスツアーになりそうなので)。でも僕は、辻邦生が歩き、思索し、悩み、そして青春を楽しんだパリの地で、辻と同じ風景を眺めて同じ空気を吸えるだけでも満足なのだ。